京都撮り歩き(92)東山山麓の豊国神社と方広寺を巡る
今日の京都撮り歩きは豊臣秀吉ゆかりの豊国神社と方広寺をご案内します。ご存知のように、関が原の戦いで勝利をえ、大阪城も落城させた、家康は徹底的に秀吉の遺功を排斥した。今日の2つの寺社はその遺功が再建された寺社であり、隣接しております。
方広寺は梵鐘に「国家安泰」と「君臣豊楽」の文字が刻まれ、この文字が豊臣家を滅亡に導いた寺で、現在も梵鐘が残っており、文字を見ることができます。方広寺の木造の慮舎那佛は繰り返す地震による倒壊、火災での焼失を繰り返した、不幸な仏様とされ、現在は再現されていない 公園のような、跡地が残っている。
また、隣接する、豊国神社のほうは徳川の世が終わり、明治政府になってから、造営された比較的新しい神社です。国宝の唐門は伏見城から移されたもの。この唐門は伏見城から二条城、金地院に移築され、維新になってから、ここ、豊国神社に落ち着いた。普段は公開されていないですが、秀吉の遺品は「宝物館」で見ることができます。
豊国神社のある位置は巨大な大仏殿の跡地を利用して、作られたものであり、家康により、取り壊された「豊国廟」の一部は、別地、阿弥陀ケ峰に明治30年に再建された。
今日の寺社のデータ
①方広寺
ブログ公開日 2020/10/10
登録番号 京都撮り歩き(92)
場所名 方広寺
魅力メモ ウキペデア 方広寺は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏を安置するための寺として木食応其によって創建された。
アクセス・連絡先 京阪本線 七条駅下車徒歩7分
行き先分類 東山山麓の寺社、
エリア③-4
三十三間堂と東山七条をめぐる
足を伸ばして一緒にいかが 国立博物館、三十三間堂、(養源院)、智積院、妙法院、、方広寺
追加エピソード 当時の敷地は広大なもので、妙法院はもちろん、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重文)や南大門(重文・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。
鑑賞ポイント 鐘楼と鐘の文字 日本三釣鐘(重要文化財)
特殊建物 方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔(国の史跡)石塁は方広寺旧境内を区切っていた石積みで、京都国立博物館西門から北に遺存している。石塔は豊国神社西方にある通称「耳塚」と、同神社境内東南にある通称「馬塚」(2基とも五輪塔)である。1969年(昭和44年)に「方広寺石塁及び石塔」の名で国の史跡に指定。2014年(平成26年)に大仏殿跡が追加指定され、指定名称を現在のものに変更した
京都観光NAVI 豊国神社のとなりにある方広寺は、「国家安康、君臣豊楽」の文字が刻まれた大鐘があることで知られている。これは、慶長19年(1614)、家康の文字を切り離したことで、大阪冬の陣のきっかけともなった
その他情報1 梵鐘を製作した三条釜座鋳物師、名越(名護屋)三昌らによって1612年に製作されました。大仏殿及び大仏は1798年の落雷により大仏、大仏殿ともに焼失しています。従って本遺物は豊臣家建立の寺院として東山に偉容を誇った方広寺大仏殿のありし日の姿を伝えています。釣鐘は有名で、奈良の東大寺・知恩院・方広寺と日本三釣鐘(重要文化財)に指定されています。
「方向寺の鐘楼」です。方向寺は本堂と、この鐘楼のみ |
家康が問題視した、文字 |
明治に建立された豊国神社の鳥居です。 |
「国宝の唐門」です。移築を繰り返し安住の地に戻った。 |
「豊国神社内部」です。 |
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