京都撮り歩き(78)東山山麓の銀閣寺を巡る

 今日の京都撮り歩きは洛東を代表する、世界遺産に指定されている、銀閣寺をご案内します。バスの便しかないようですが、京阪出町柳駅からも徒歩圏ですので、今出川通りを東方向に白沙村荘の前を通り、銀閣寺橋を過ぎると、すぐに、銀閣寺に至ります。
 銀閣寺(慈照寺)は金閣寺と同様に、相国寺派の山外塔頭であります。家督相続に疲れた、足利義政の別荘ですが、死後、遺命により、禅寺になった。義政の略奪により、建立されたが、後の応仁の乱により、堂宇は焼け落ち、現在ある、東求堂、銀閣、庭が残った。義政本人は銀閣の完成を見ないまま、黄泉の国のひとと、なったとある。
 建物は祖父の金閣寺、庭の配置の下段の池泉回遊式と上段の枯山水式も母の住居の西方寺を模したとされる。祖父義満の北山文化と比して、東山文化といわれるが、足利幕府凋落に兆しが始まっていた。室町時代の書院造りがのこっています。詳細は見所に記しておりますので。是非、ご参照ください。銀閣寺についてはいくつもの資料に詳しく、記載されていますので、事前に目を通していかれることをお勧めします。できれば内部がご覧になれる、特別公開日を調べて、お出かけください。春・秋の特別公開時に方丈や東求堂内部、本尊もご覧になれます。

銀閣寺の解説書
 次の資料が銀閣寺の主な解説書として、お勧めします。
  ①京都格別な寺 宮本健次著
  ②京都名庭を歩く 宮本健次
  ③京都の空間意匠 清水泰博著
  ④京都名庭園  水野克比古著
  ⑤京都文化観光試験他

今日の寺社データ

ブログ公開日
                                     2020/8/22
登録番号
京都撮り歩き(78)
場所名
銀閣寺
魅力メモ ウキペデア
慈照寺は、京都府京都市左京区銀閣寺町にある、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺の境外塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。 室町幕府8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺として知られる。
アクセス・連絡先
交通 - 「銀閣寺前」(京都市営バス32・急行100系統)下車徒歩6分、「銀閣寺道」(京都市営バス5・17・32・急行100・急行102・203・204系統、京都バス18・51・56系統、京阪バス56・56A系統)下車徒歩10分。
行き先分類
東山山麓の寺社
エリア①-1
南禅寺から銀閣寺への道
足を伸ばして一緒にいかが
    銀閣寺、法然院、哲学の道 大豊神社
追加エピソード
延徳2年(1490年)2月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。寺号は義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされたが、翌年「慈照寺」に改められた。戦国時代中期の天文19年(1550年)には12代将軍足利義晴・義輝父子により慈照寺の裏山に中尾城が築かれ(短期間で廃城)、末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺6世の陽山瑞暉が前久の弟だったことによる。前久の薨去後の法名は東求院龍山空誉であった。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された
鑑賞ポイント
    「古都京都の文化財」として 世界遺産に登録
行事・特別公開
   春 3月上旬ー5月下旬、秋 10月上旬ー12月下旬
お勧め建物
      国宝 慈照寺銀閣 慈照寺東求堂
特殊建物
        下記見所を参照ください。
お勧め文化財
お勧め仏像
お勧め絵画
お勧め庭
     庭園が 特別史跡および特別名勝に指定
パワースポット
花暦 花・時期
京都観光NAVI
臨済宗相国寺派。1482年(文明14)足利義政が営んだ山荘東山殿を寺に改めた。1489年(延徳元3)に上棟した銀閣(国宝)は宝形造り二層の楼閣。上層は潮音閣。下層は心空殿。庭の北にある東求堂(国宝)内部に同仁斎があり、四畳半茶室の原型といわれる。仏間は阿弥陀如来像、義政公像を安置。下段の庭園は池泉回遊式庭園(特別名勝・特別史跡)で、本堂前の銀沙灘、向月台の二つの砂盛りが印象的で、江戸時代初期からつくられたといわれる。上の庭園はお茶の井庭園ともいい、昭和6年に発掘した岩石群は枯山水庭園である。1994年(平成6)12月「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。建立:1482(文明14)年
その他情報1
室町幕府8代将軍足利義政が1473年(文明5)嗣子足利義尚に将軍職を譲り、 1482年(文明14)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)を造営しました。元々は応仁の乱で焼亡した浄土寺のあった所で、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っています。東山殿の造営工事は、義政の死の直前まで約8年にわたって続けられましたが、工事開始翌年、常御所が完成すると義政はここへ移り住みました。東山殿には会所、常御所等の大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)程ではないですが、ある程度の政治的権力も持っていました。それは当時まだ応仁の乱直後で、京都の経済は疲弊していたにもかかわらず、義政が庶民に段銭(臨時の税)や夫役(ぶやく、労役)を課して東山殿の造営を進め、自身は書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていた事からも伺えます。490年(延徳2)、義政の遺言により東山殿を禅院に改め、翌年、慈照寺と名付けられました。現存する当時の建物は、銀閣と東求堂のみで、ともに国宝に指定されています。戦国時代末期には、前関白近衛前久の別荘になりましたが、これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かったことによります。前久の死後は、再び相国寺の末寺として再興されました。
その他情報2
正式には慈照寺といい、臨済宗相国寺派の境外塔頭。足利義政が造営した東山殿を、義政の死後、夢窓疎石を勧請開山に禅寺として創建。国宝の観音殿(銀閣)は、創建当時の風雅な姿をそのまま残す。東求堂の同仁斎は現存最古の書院造の部屋。銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる白砂や、台形の向月台(こうげつだい)が配された庭園は、月を愛でる趣向が伺える名園であり、国の特別名勝・特別史跡に指定されている。本堂・東求堂・弄清亭の内部は春と秋に特別公開される。世界文化遺産登録。
公的案内資料

銀閣寺の見所
銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池(きんきょうち)の畔に東面して建つ。長享3年(1489年)の上棟である。屋根は宝形造、柿葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置く。ただし、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていた
東求堂(とうぐどう)は一重入母屋造、檜皮葺きで、文明18年(1486年)の建立である。軒は疎垂木、組物は舟肘木を用いる。義政の持仏堂として建立されたものであるが、様式的には住宅建築の要素が強い。
平面は正方形で、東西南北の各面とも6.9メートル、三間半四方の規模である(ここで言う「間」は畳の長辺の長さ)。南を正面とし、内部は4室に分かれる。正面側は西(向かって左)を8畳大の仏間、東を縦4畳の室とする。奥側は西が6畳、東が「同仁斎」と呼ばれる4畳半の書斎である。仏間は床を板敷、天井を折上小組格天井とする。他の3室は畳敷で天井は棹縁天井とし、室境はいずれも襖とする。
庭園
特別史跡・特別名勝。錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園。「苔寺」の通称で知られる西芳寺庭園(夢窓疎石作庭)を模して造られたとされるが、江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われているといわれる。「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。
銀閣寺垣
慈照寺の門から庭園を結ぶ入り口の道の両側の垣根は銀閣寺垣(ぎんかくじがき)と呼ばれている。



銀閣寺全景です。左側が銀閣寺道です。
直ぐに山が迫っています。

銀閣寺入り口です。珍しく、人のいないタイミングでした

銀閣寺垣です。入り口から入場門まで続きます。

銀閣、銀沙灘、向月台です。境内詳細はスライドをご覧ください。

下段の池泉回遊式の庭園です。手前が錦鏡池
     
        

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